■2008/02/25(月)
 Vol.709
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【選手紹介:その19】
【Jr.:川原信郎】
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とにかく壊れている 壊れちゃっている 。周りまで壊しにいっている。
そんな壊れた壊し屋が、上の方々のご指導と道場生同士の関わりのお陰でここまで来られたことに、まず感謝致します。
思えば、丸さん.マネージャーの最強戦連覇以後、近代麻雀ゴールドの販売日を最大の楽しみに、真っ先に開いていたのは「超絶」のページでした。
牌の音のイメージは「強い」「怖い」でしたから、ごくまれに来させて頂くだけでした。
あの人この人と見て喜んでいたのですから、ファンといえばいえそうです。
そんな自分が足しげく通うようになったきっかけは、「また明日!」という小島サブマネの声でした。これを待っていたんだと思います。そして翌日来ると、再び「また明日!」...ぁ、来てもいいんだと嬉しかったものです。
今はサブマネも「また明日!」と言ってくれませんし、言われても平気で休みそうな自分もいるのが残念です。
そして通い始め、半端じゃないスピードと強さにしびれました。
雀鬼会=厳しい集団への憧れは強く、何とか入れないかと思っていました。
ある日フリー卓で会長が「お前、ちょっと頑張って予選受けろ」と声をかけて下さったのです。感激しました。ついに道が開けたと思いました。
そして予選にエントリー...こんなに厳しいのか、なんで自分はできないんだと歯を食いしばって泣きながら勉強会で打ってました。その甲斐あってか予選に合格。「思ったよりいい麻雀打っていた」と言って頂き、有頂天でした。
「雀鬼会」というブランドに憧れていた部分が大きく不純だったかもしれませんが、時代も今とは違いました。
とにかくこの一期は何かとトラブルを起こし続け、千upはしたものの、同時にちょっと好きなコのいる他店にも通い(当然脈無しで終了)、Jr.ではポイントを叩き....負のパワーって恐ろしいものです。
会長から「お前はトッポいからなぁ」と言われて、ひょっとして褒められているのかもと勘違いしたり、当時既に三十路のわりには、若気の至り過ぎた感があります。
ところがとにかく現場に存在できることを評価されたのか(面子要員ともいいます)、穴を埋める形でイキナリ選抜に上がらせて頂きました。
ここで村瀬サブマネ(当時)が町田から異動、下北の上の方々と「スピード」の一期の幕を開けるのでした。
平日の4時頃から、とにかく「長」とか「天王」の付く方々が、何が楽しいのか、目の回るようなスピードの卓を立てていて、そこで実際に目を回していたのが自分でした。
「無理だ、もうツモった牌も見れない...誰かやめるって言わないかな...間違ってもここでラス半とか言えないよな...言っちゃおうかな...いやどう考えても言えないな(×10)...(カランカラン)あ、誰か来た!対面の村瀬さんの所にご案内だっ。頼むフリー面子であってくれっ!オレのためにペースを落してくれっ!来いっ!」
と振り向いたら多田さんで、すごくガッカリしたりしていました。
その頃現スタッフの矢部は、失恋のショックで、「ちっと男をみがかなきゃ」と逃亡から復帰したばかりでしたが、うっかり「長」卓に入ってしまい、延々手順ミスとペナを繰り返し、「あ!」と言い続けて、再び消えました。
自分は「そうだろう、そうだろう...」と、矢部の背後で深くうなずいていたものです。癒されましたね、助かりましたね、あの夜は。
この期は7kgやせました。選抜を3期の後、Jr.10期、番外2期です。その間に17kg太りました。「ナメてんのか」というご指摘には、謹んで「失礼しました、合わせ技です」とお詫びしたいです。
大体イッパイイッパイでやってましたが、Jr.選手をつぶしにきてるんじゃないかというアノJr.打数対決とか、もう笑っちゃうか逃げちゃうしかないって時のことが一番楽しい思い出にもなってるんですよね。
「もしここに来ていなかったら」とは本当に怖くて考えられません。今いられることがありがたいと思います。
他には色々な意味で、ヤル気ある若手の最初の壁として、夜な夜なつるんだりやってきましたが、シャボ、パセ...みんな壁の向こう側にいってしまいました。それでいいんだと思います。
最近では「志村さんのムチャ振りはもうヤなんですよ」という金と入れ替わりで、町田に行くことがありました。
理絵チャンが眠くなったら本当にお開きになったり、HP通りなのがカルチャーショックでしたが、楽しくやらせて頂き、ありがとうございました。
一緒の帰りの電車で、下北で席から立って挨拶してくれたクッツー!実は相当嬉しかったよ!下北の若手はキツくてさ...ではJr.チャンプの紳也さん、お願い致します。
[写真:709]

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