■2007/12/24(月)
≪ Vol.667
年の瀬になり、あわただしい日々が続くなかそれでもやりくりしながら一年どうにかここまで、やってこれた。
昨日は下北ではクリスマスパーティ。クリスマス企画中は、岡村100UPおつかれ。木下・水野・康夫もこつこつ打ってくれました。麻雀大会・食事・じゃんけん・ビンゴの後、康夫の動きと金子さんのこわれっぷりが場をもっていく。
普段から旋盤屋の康夫も、花屋のシャボもサラリーマンとは違ったやりくりの中、遅い時間にあらわれる。いつでも麻雀を打っているとき意外は、二人とも明るい。(笑)暗い世の中で、明るいというのはそれだけで、貴重な存在です。彼らの味もまた、雀鬼流では学ばなければならない味です。
実際に麻雀で喰えるかどうかはともかく、我々は麻雀で食べていくわけではないので、麻雀だけじゃおたくになっちまう。僕たちどこまでいっても素人ですから。本当のプロは一人しかいませんし。
雀鬼流は麻雀のルールではありません。普通の麻雀とルールの違う麻雀ではないのです。麻雀の枠組みで雀鬼流を捉えると、話がおかしくなります。雀鬼流はイズムですから、ペナルティーで和了放棄になるから、ドラや字牌を切らないのではなく、切らないと決めたから切らないのです。
そこには牌効率や期待値はありません。ノーベル賞学者の洗練された公式や、どんな理論を使っても、確率や統計からは、平均値へどうやったらたどり着くかは教えてくれますが、それ以上の世界への行き方は、決して教えてくれません。理論でたどりつけるなら、いづれ誰でもたどり着けますから。何も知らない人の上にはいけても、平均じゃしょうがないでしょ。平均値ぐらい小学生でも計算できるし。そんなものおっかけてもつまんない。ではどうやったらその上にいけるのでしょうか・・・・・・いわずもがなですね。
常識や理論や科学なんてたいしたものではないのです。常識とは世間で信じられている(信じ込まされている)仮説であり、科学とは最新の仮説に過ぎない。仮説ですからいつでもひっくりかえるんですけどね。コペルニクスのように。
まあでも、「科学は常に反証できるもの」であるだけまだましですかね。宗教だったらたいてい、神は絶対ですから、反証の余地さえ許してくれませんからね。そんな絶対なものがあっちこっちにあったら衝突するのは当たり前ですよ。
常識人も専門家も宗教人も、良い悪いはともかく、野暮ったくみえてしょうがない。もうちょっと粋に生きたいものです。職人のようにね。康夫もシャボも旋盤屋や花屋で良かったですね。
おこりんぼうのサンタより。
[写真:667]
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