■2006/02/27(2)
≪ Vol.53
俺がホームページの存在も意味も分からないと言うのに今まで散々書かしておいて、文章や話が長いわ、訳分からんわと、文句ばかり垂れている安田さん。前日、仮にもだよ、「返答せよ」と、俺が申し述べているのに
「答えなさい!!なんて、学校の先生じゃあるまいしねぇ、会長」
と、たった二行で受け流す。これって完全に俺に対する無視じゃない。安田が俺に反抗したり、無視したりするから俺は今や道場で孤立状態で、悲しい気持ちにさせられています。これも全て「自責」自分の蒔いた種なんでしょうかね。それにしても、これだけ書いてどこからか原稿料頂けるですか?
安田、ちゃんと払ってよ!
今日も出掛けに内孫の温舟(はるし)を観察していた。自分の孫を可愛がるという言葉を使わずに、動物や植物の成長や変化を見るような孫に対して観察なんて言ってしまう俺は、人の道を外しているのかも。
目を合わすと天使の様な微笑だけだった孫も、九ヶ月を迎えると、少しづつ要領というか使い分けをするようになった。孫も、正しい使い分けとずる賢い要領の良さとの分岐点かもしれない。こんな幼子にも、すでに選択や決断が入り込む。本人の資質が、どう選ぶのか、周りの大人たちがどう導くのか。すでに彼の道は決まりかけている。
自然にしろ、人間が関わるものにしろ、放ったらかしはいけない。バランスを感じて、人間の手を加えなければ、全てが成り立たない。
九ヶ月の孫も眠くなったり、安全や安らぎを求める時は、若き母親の温かい胸にいだかれ、冒険や遊び心が沸いてくるとハイハイしながら、俺の足元に這って来て、手を上に上げる。俺に抱かれた孫は満足感でいっぱい。嫁が「おいでよ」と手を差し伸ばすが、一番大好きな母親に背を向ける。
俺が若かりし頃は、何時でも四人の子供達が俺の体中にまとわりついていたものだ。トイレに入っても、四人の子供達が侵入してきて膝の上に二人、かたや頭の上に二人が上って来て、尻に力が入らず用も足せずに退却した頃が懐かしい。今は孫を一人抱くだけで、ずしりと重い。「生命の重たさ」を孫が新たに教えてくれる。
孫と遊ぶのも三分一ラウンド制。三分遊んじゃ、自分の部屋で一休み。10ラウンドはとても持たない。若き嫁さんと孫のふれあいを眺めながら若さって凄えなー、と思ってしまう。
九ヶ月も経つと天使の笑顔から男の子らしい、いたずら顔が多くなった。それも俺の血の流れだから受け止めよう。
心の病がない孫は今んところシンプルである。大人、大人の心の中や行動は、いまだ俺には、複雑すぎて分かりません。
雀鬼
[写真:053]
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