■2006/06/02(金)
≪ Vol.147
「背高ノッポの古時計」
「ホッホッホタル来いそっちの水は辛いぞ、こっちの水は甘いぞ」
ということで、絶対に行くめぇ、そこへふみ込んだら、人間を捨てなきゃなんねぇ、てぇことは、直感的に感じていた俺が、元々そっち側の人種である安田の持つ、強烈な負のエネルギーに誘惑されて、ちょいとだけ狂いの世界を垣間見てきた。
今日びさあぁーそれぞれが生きるために、努力や工夫や、一生懸命や頑張りが積み重なっていたとしても、その方向が知らず知らずに“狂”(くるい)の世界の領域であることすら自覚できずに、自己を埋没させている者達が多いと思う。制度やしくみや構図に、社会全体が狂(くるい)という分野に突入し、幅を置いている。
「そこの君、あっちの彼も。君、君、あんたもおかしいだよ」
これが普通なんです、なんて、とんでもねぇこったぁ。自分の通常に、何か変だ、何んかおかしいぞ、と感じなければ危ないってぇ。狂(くるい)が普通てぇ、危なくないかい。
「君、君、君のことだよ」
金があろうが、立場があろうが、能力があろうが、そんなもんとは関係ないところで、人々は狂(くるい)の中に棲んじゃっている。それぞれの人々が持つ時計の針が狂っているのに、標準時がないために、誰しもが、自分の持つ時計の時刻が、正しい時を刻んでいると思っている。それを個性とか能力という囲いの中で表わしている。
俺にしたって今日びの社会で、標準時や正しい時刻を知ることは難しく、中々探せないし、正時に自分の時計を合わせたり、修正することが、どんどんどんどんと、難しくなっている。
人々は、自己の持つ時計が完全に止まったり、壊してしまえば、気づくこともあろうが、一応狂っていても、針が動いていることで、生きているという実感を見出しているようだ。
正時の時を刻めない時計は、「時の計を」、夢や希望や目標を計ったとしても、それは負のエネルギーとして残るだけ。正時の時を忘れちまった人々は、他人の時を壊そうが、他人の刻む時を止めてしまおうが、そのことに対する罰を感じ取れない。それぞれの人が持つ自己の時計が、狂っていようが、動き続けていれば、今日びの人は、それが人間であると思っている。政治、経済、社会、教育制度の中にだって、「正時」なんていうものがありやしない。利口な人々は、「正時」なんてぇいうものがないことを知っていなさるのか、全くもって探そうともしない。
「この世は色々あって何もない時代」
「あったもの」が無くなり、姿を消して行く。「あったもの」を無くしてしまったのも、皆んな俺達。
続いてやって来る次の世代の人達には、「何んもない時代」が待っている。それが我々の残すもの。そんな中に、我々は棲んでいる。
いいんだろうか、こんなことで。よかねぇよな、俺達も。雀鬼
[写真:147]
預かったものを繋げていく…それが使命です。
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