■2006/04/23(日)
≪ Vol.105
昨日HP用に書いた原稿は、道場に見たこともない工具を持ってきてそばで、原稿を書く俺を無視しておもちゃを作って遊んでいた安田には渡さず竹書房の我れ悪のコラムの方へ回してしまったんだけど、内容は、良いスタッフと、悪いスタッフみたいなことを、書き綴ってあった。
その良い子、悪い子、普通の子の中でも22才になる清川は雀鬼流としてもスタッフとしてもその若さで◎をつけられる良いスタッフであった。あったとのべれば、過去形だが、別に今、現在、姿を消した訳ではない。「我れ悪」でも触れているが、俺はスタッフの人事については、道場の上の立場にある人達に全てまかせ。だいたいが良くとも悪くとも承認するだけ。清川が今から四年以上前に、スタッフに加入する時だけは、どういう風の吹きまわしか、俺が自ら立ち合い
「清川、お前だけは、何としても三年は、ここで修行しろよ。」
と言い渡す。男と男の約束って、けっこう強くあらねばならぬもののはず。だけどほとんどの場合、時が経ち、事情が変わって忘れられることの方が多いのだが、若干18才だった清川と俺との約束は、思った以上に守られた。それもこれも全く清川の心の持ち方と、行動を惜しまぬ日々が成したもので、俺は、三年間じっと見守っていただけ。
我が家にも清川と同じ年の末っ子の息子がいるが、清川の方が、男としての生き様や鬼力を、十倍も持ち続けてくれた。清川は、下北道場でも若くて活きのいい子を集めて「少年隊」とかを作って、道場を何時も明るく元気で、すがすがしい方向へ向ける道を作ってくれていた。
俺が18才の若い子に、「三年間しっかりやれよ」なんて約束したためか、三年を過ぎた頃から、体の不調、胸の痛みを見せるようになって、それでも道場に入れば元気さと明るさを灯してくれていたが、痛みは失せず、町田道場生の清水先生の最終診断を受けドクターストップがかかり入院。その上、手術を受け長期の静養に入らなければならなくなった。
清川は今や雀鬼会選抜で、最もけわしい厳しい試合をする席にいる。その席を病とはいえ、途中でその席をぬけることは、彼の性格上、悲しいことであろう。清川が打てぬなら誰かが、その席に着かねば、雀鬼会本戦は進まない。だからといって誰しもが勤まる席では決してない。起きたトラブルに対して瞬間的に清川の姿の上に若かりし頃の佐々木秀樹の顔が俺の中でダブる。佐々木は、事情を察して、即答で出場を受けてくれた。その上、今日道場に来て、雀鬼会のレポートを読むと、そこに
「会長直々に電話を頂きました。清川主任の体調そして代走……色々な意味を感じ考えながら朝をむかえました。はじめて清川主任に会った時、純粋で元気良くて若いのに良く気付き、目がいき届くし、しっかりしているなって思いました。−−中略−−勝手ながら自分の弟のような感覚を持ってました。清川主任・本人は試合に代走が出るのは、無念だと思うし、悔しいと思います。会長からお話しあった時、そんな弟のような清川主任の為に、なにか自分が出来るならと、代走の話しを受けさせて頂きました。
選抜16名の中に入るのは、代走とはいえ、かなりの責任覚悟は感じています。清川主任が早く良くなり、又、元気な顔が見たいです。そのためにも自分も少なからずとも力になれればと、思っています。」
と熱い嬉しい文章があった。
雀鬼会は何時だってすんなり行って楽だったなんてことは一つもなかったが、一つのトラブルの中に、又、美しいドラマが生れた。佐々木が、清川の若さの頃は道場に先輩達も、歯が立たないほどの強さや、勢いの良さがあった。その道を自ら律して10年が経つ、彼には過去に、雀鬼会の歴史を作ったページがある。そのプライドも意地も今だ彼の中には、失せたものではないことは、時折りふれあう佐々木の態度を見れば、計る事が出来る。その精神は、失せねども、現実の本戦は、佐々木秀樹が打ち合った頃より厳しさが増している。
弟のように思う清川のために、自ら月曜日の日に厳しい舞台に再び立つ。勝ちだ負けだという、ちんけな問題でない。世代を越えた友情、思いやりを感じられる。
誰にも愛される清川。卒業生の中でも存在を認められる佐々木秀樹。心と行動の美意識を、感じてしまう俺がいる。
雀鬼
[写真:105]
清川正浩と佐々木秀樹
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