■2006/08/06(日)
 Vol.205
海の水といいう生命の源から、昨晩遅く10日振りに東京へ帰って来た。今年の夏休みは、例年の1/3の期間だったが、短い分だけ「やる気」がある者の姿を色別けでき、密度が濃いものだった。
一宿一飯の義理ごとじゃないが、道場生と共に暮らす日々は、新たに「義」と「理」の心と行動のあり方をこの目で確認できた。
人間って本当に馬鹿だよね。どんなものより、水が大切である事を忘れてしまっている。水、水、水と百っぺん聞いても良いぐらいなのにな。
昨日は夏休み最終日という事で後片付けをしっかりやった上で、30名ぐらいで海に潜る。今年の夏休みは寒く、水も水らしく冷たかったが、道場生等は毎日冷たい海へ挑戦。それなりの根性や体験も加わった勝負だった。
俺って自分も疲れきっているが、どうしてやる事、為す事、廻りに集う道場生たちを疲れさせてしまうのだろうか。海だって、人ごみ溢れる砂浜へ行けば楽なのに、入る時も出るときも危険な岩場を遊び場にしてしまう。海へ潜ればある意味、生命がけである。それを乗り越えられぬ者には、自然の素晴らしさも達成感も生れない。遊びであっても決して油断も隙も見せられない。何しろ遊んで下さる相手が大自然というでかいお方ですから、小っこい我々なんか到底相手にならない。雀鬼会は厳しい麻雀を打っているが、そんなものは卓上での勝負事。そんな卓上で得た根性や感覚くらいじゃ、大自然には相手にもならないし、通用もしない。
卓上がその時、その場で変化を見せる以上に海も日々変わり、時と共に魚の種類の現われ方も違ってくる。突然サメや大物や旨味ある魚類が現われる日もあれば、小魚やつまらん魚しかいない日もある。
いわゆる運、不運という当り外れもあるのだから勝負事と重なる海には確実に、臨機応変、適材適所、柔軟性が大切である。そこに棲む生き物は、全てその要素を持って生命を保っているのだから、彼らの生命を見れば、活きる意味を学び取れる。我々人間社会が作り出してしまった狂った知識を。彼らは変わることもなく、正当な有り方を連続して保っている。
道場の卓上では三つの要素を生かせず、選抜の下位陣について行けない花岡が、海へ入れば俺からの学びを実行に生かし、海人ばりの働きを見せ、その後に村瀬道場長が続く。雀鬼会の卓上では格好がつけられない花岡は、岩場に潜ると格好良く、一つ一つの壁を一番先に登っている。
雀鬼会では83週連続の鬼打ち記録を作った花岡ゆえの見せ場である。彼にしたって長く深く潜り続けることで、鼻血を出すわ、体中、波と岩にやられてすり傷だらけ。海に強い花岡も村瀬も岩や魚の反逆を受けて倒れることがある。俺にしたって命を失う寸前を指が全部折れるほどの体験をして来ている。
今日家から道場へ来るまでコンクリート上での足の運びは重しをしょった程重く、後ろからひょいっと子供に押されたら倒れこむほどで、通常の2倍以上取れていた食事の量も、一気に減って、半人前でギブアップ。
通常なら海と一体化し、共鳴して帰って来た俺の身体は軽いのだが、今年は海に潜る事も少なく、岩場に座って、道場生等の成果や変化を眺めるばかりの岩上のコーチ化したためか、硬さの疲労が残ってしまっている。
やっぱりねぇ、自分から先頭切ってやるべき事をやらねばいけないのだろうか。俺もこの夏に、もう取りたかねぇ年を一つ重ねてしまった上に、寒さに負けて少々の風邪気味。これからは一つ年を取るごとに少しずつ出来ねぇことが増えて行くんだろうなぁ。だからこそ若者は一つ年を取ることでやれるべきことを増やす喜びを持たなければいけないと思う。
安田、お前だよ。まだまだ若えんだからやったれ、やったれ。花岡や村瀬に追い越されていく姿を眺めてんじゃねぇつうこと。多田化や塩化はまずいって。雀鬼流は社会から一歩離れたところにあるんだからね。
自然感、自然との共鳴を失う人々は危険なんだよ。
雀鬼

[写真:204a]

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