■2006/05/07(日)
≪ Vol.120
昨日は午後8時に早退。通常よりも6時間は早い。9時から楽しみのプライドを見るための帰宅。本来なら大阪ドームの会場のVIP席にいられたものを、自ら律してがまんする。好きなこと、やりたいこと、自分が欲するままに生きるも自然だろうが、例えそれが可能であったとしても時としては、それを望まないことを「律する」とする。
応接間を締め切って、自分の能力で(笑)新型のでっかいテレビにトライしてみる。
「つかないよ、どうやるのこれ。」
ということで、嫁の力を頼る。ああだこうだと能書き言ってる割にはプラズマテレビすら一人でみれない。
ボクシングの亀田兄弟の映像が写しだされる。長男坊の興毅が世界戦前哨戦らしい。対戦選手の動きが鈍く写る。この相手では闘いというより、時が至れば興毅がつぶせる相手。ボクシング会場の割りには女性客や子供の姿も多くステージかライブの感覚と、メディアを含めた皆さんで作り上げられていた。時が至れば亀田三兄弟もボクシング一途に道を父と伴に選び、独自のトレーニング方法で自分の持った才能や力を作り続け、目標を頂点にとらえ、自分をそのレールに乗せることで、ファンまでもいっしょに乗りに乗った会場のムードであった。時が至れば時代の流れに乗る。乗り遅れないために、普段から「準備・実行・後始末」をすることでボクシングという領域でしっかり自分達を間に合わせて来ている。
彼等の立ち振る舞いや言動だけを見れば、ただのやんちゃ坊主、突破者。そんな姿は町田近辺のコンビ二前にだって見て取れる。誰彼なくメンチを切って、目を細め、時によっては、けんかをする。それを町のストリートでやればただの不良だが歴史がありルールもあるリングでその姿を見せれば、時の流れに乗ってメディアも共鳴し、ボクシング界にも久方振りのスター選手が生まれ業界もファンも盛り上がる。
彼等も今やボクシング界のエリートだが、三権の中に棲む日本型のエリート連中に比べれば数段「怒れる魂をリングにぶつける」亀田三兄弟の方が可愛らしく見て取れるレオナルド・ダヴィンチのような超エリート、天才なら多種にわたって凄まじいほどの万能振りや、才能の広さや深さを感じるが、常人にはそれほどの才を持ち合わせない。
何人にも俺には出来ない。だからやれない、やらない、適当に中途半端に生きるよという人達もいるが、偏りかも知れぬが、とにかく一つのことに夢中になって突き進み、それを可能にして、認知される生き様も「大小」はあろうが多種の業界で見られる。その力が「大」となればプロとして認められ「小」であっても生活の分野の中におかれている。
金を得ることが出来るものをプロであると定義すれば、それは全ての職につく者達に当てはまってしまう。やはりそこに大なり小なりという識別の中で、判断されるものであろう。
とにもかくにも亀田三兄弟のような教育、知識、学力に合わなかったとしても、どんな道にも「必死」で貫き通せば何かが見つかることを10代の若者達が見せてくれることは、一筋の光明であるのかも知れない。習うこと身につけることは、何も学校や学問だけでなく、彼等のように自分の肉体をもってして何かを学び取り掴む。そこに多くの知を持ってして、成った人たちにも、振り向かせる姿があるのかもしれない。
人として生きる以上、良知も必要であろうが原点に戻れば、全ての生きとし生けるものは自らの肉体をもってして、生命の連続性を保っている。人間という生き物は、肉体的弱さを知って、知を求める。そんな気がしてならない。知を増加されたものを利口として優れものとし、それに劣るものたちは自らの肉体を使って生きろという構図が、制度や社会の中にも成り立っているが、それすら自然界に生きる生物の本能の中に棲む知恵と対比すると大きく異なって見える。
そんな皮肉な状況や不条理を感じながら俺にとっての本日の前座を見終ると、真打のPRIDEが登場。
今最強を保つヒョードルは出場しないが、3強の一角を担うノゲイラとミルコが揃う。彼等の今の強さも本物である。特にノゲイラはK1やボクシングと違って殴って倒すだけでなく、芸術的柔術技で相手を極めていく「職人技の極め」を感じ取る。何時も間近で肌でそれを感じたものだが、今回はテレビの前だが久し振りに「ワクワク」する自分がいた。
闘いという勝負事だから水物であり、ゲタを履くまでわからないが、PRIDE無差別級GPの開幕1回戦の相手を見ると負ける要素は100%近くあり得ない。そしてノゲイラもミルコもそのように自分の持つ味を半分ほど出しただけで勝利した。
少し前だったが俺が町田道場で、訪ねてきた他の格闘家と戯れていた時間に、逢う事はできなかったが、他の格闘家に連れられて下北道場へ遊びに来てくれたという、元プロボクサーの西島洋介選手の動向も気になる。
相手は、日本人でPRIDE上トップクラスの柔道の吉田選手。彼もこの舞台に慣れ、吉田選手なりの闘う味を凄まじいリングで見せ続けてくれていた。場慣れ、試合度胸を身につけている分だけ吉田選手に分があるが、直接逢う事はできなかったが訪ねてくれた分だけ、西島選手に思い入れがあったがボクシングでいうクリンチ状態から倒され、技を極められて負けてしまう。
気持ちが強くある人間だけに更に立ち上がって欲しい。
ボクシングの、今や登り竜の興毅の若さとその道を通った西島選手の立場を想う。この日、ノゲイラもミルコも少年興毅も見事な勝ちっぷりを見せたが、俺も一番感動したのは、引退をかけて死に物狂いで闘うといった高坂選手。ヒョードルと同質の柔らかい筋肉を持つ元K1のチャンプにスタンドの間合いを取られながらも、地獄な相手の場に入って闘う。
途切れそうな意識を何度も何度も自分自身で奮い立たせ、厳しい重たいパンチを受ける。勝ち負けの結果以上に、自分が自分に約束した「死ぬ気でやる」という経過を誠に見せつけてくれた。
「言うは易し、行うは難し」
高坂選手は己で決めた難しい事を、見事に貫いてくれたのだから、見事な散り振りであった。勝ちっぷりという以上の立派な負けっぷりを見せてもらった。試合後悔しさの中で、
「前へ前へ出ることしか考えなかった。試合でなく勝負がしたかったが、それはできた。」
という。まさにその通りの見事な勝負を彼は最後と思われるリングで見せてくれた。勝負には勝ち負けはつきものだが、勝負にも汚いものと美しいものがある。
雀鬼
[写真:120]
≪ [Home]